親が生き方を押し付けると、全てが台無しに

親が生き方を押し付けると、全てが台無しに

どうもこんにちわ、INAZOOです。

 

最近はエリートな親の元で育った子供が親を殺める事件、その逆で、エリートな親が自身の価値観から逸脱した子供を殺める事件などが多発しており、テレビを付けると毎回胸を締め付けられるような思いがします。

 

 

こういった事件を目にする度に、親としての自分と、父や母の子供としての自分それぞれの側面から、“親の価値観”について考えさせられます。

 

この手のニュースを見て、自分の親としての振舞いや子供としての経験を振り返るような人は、おそらく私と共通のバッグボーンを抱えているのではないでしょうか。

 

それは、自分の親が、理想的で経済的にも人格的にも優れた父親や母親だったというケースです。

 

エリートとは言わずとも、親があまりにも優秀に、あまりにも危なげなく自分を育ててくれたがために、大人になった自分をじわじわと苦しめている・・・、こんな経験や思い当たる節がある方は少なくないのではないでしょうか?

 

Advertisement

親が生き方を押し付けてしまう理由

親が子供に生き方を押し付けてしまう理由・・・。

 

そもそもの話ですが、恐らく、いやそれはもうほとんどの確率で、親は“押し付けている”感覚がないはずです。

 

私も2歳の子供に対して生き方を押し付けている感覚はありません。

 

しかし、社会一般的に言う『叱る』という行為自体も、広義の意味では生き方を押し付けていると言えるのでは?と私は感じています。

 

『叱る』という行為と共に十中八九用いられる親のお決まりの文句に、「○○のことを思って△△」というフレーズがあります。

 

つまり、あくまで叱るという行為はただ怒りという感情に身を任せているのではなく、あくまで子供のためを思った行為なのだと。勿論これは事実でしょう。

 

私も人の親です。感情に流されてしまうことも多々ありますが、子供を叱る行為の背景には常に、子供が将来的に困らないように、怪我をしないように、人様に迷惑をかけないようにといった観点から叱ります。

 

いや、待てよ。既に押し付けではないだろうか。

 

そうです。子供に対して将来困らないように、怪我をしないように、人様に迷惑をかけないように・・・という観点はそもそも押し付けではないでしょうか。

 

勿論、人の命を奪うとか、人を傷つけるという行為は、一家庭内の話に留まらず、法治国家にあってそもそも許される行為ではなく、社会が円滑に機能する上では誰もが当然のように守るべき倫理観です。

 

つまり、倫理観は押し付けではないとしても、将来困るだとか、人様に迷惑だとかこの辺の基準自体が押し付けなのではないでしょうか、というのが論点です。

 

話を戻すと、親が子供を叱る、あるいは生き方を押し付ける理由は、子供を案ずる親心。

といえば簡単です。

 

しかし、話はそんな単純ではないと思います。

 

子供を案ずるのであれば、先に述べた倫理観や人を傷つけてはいけないという基本概念だけで事足りるはずです。にもかかわらず、考え方や物事の良し悪し、判断基準までに叱る対象が及ぶのは何故か?

 

恐らく本当の理由は自己肯定感の充足だと思われます。

 

Advertisement

親の自己肯定に利用される子供

親の自己肯定感に利用される子供
子供をインスタに挙げまくる親、要注意やで

では、親の自己肯定感を高める要素とは何か。これは普段からInstagramで子供の写真を投稿しまっくている親はよく読んでみてください。

 

それは自身が子供を育てたという実感や実績。具体的には、自分の子供の将来にあるのではないでしょうか。

 

少々無機質な言い方でもあり、「無償の愛こそ親に求められるものだ!」という建前を信じて止まない人からは思いっきり否定されてしまうような言い方ですが、いわば親としての自分のポートフォリオたる自身の子の成長や子供を通した社会への価値提供こそが、親である自身を肯定するものであり、親としての答え合わせの一つだと考えることができます。

 

例えば、子供のためにと考え自分がやりたかったことを我慢した、子供のためにと思い転勤の話を断った(少々時代錯誤ですが・・)、子供のために、子供のために・・・といった具合に大なり小なり自分を押し殺してきた人は、その我慢をどこかで正当化したいという欲に駆られます。私はこれを、親としての答え合わせと定義しています。

 

しかし、この答え合わせとやら・・・いつになっても答えが分かるはずがない、ということに気づかないといけません。というのも、子供の人生の答えなんてものは親には分かりません。ましてや子供自身にも分かりません。

 

とはいえ、恐らく世の中の多くの親がこの考え方に苛まれており、意識しないにせよ、同じように子育ての是非を捉えているのではないでしょうか。勿論あまりに非倫理的な表現であり、親と子の間柄を語る上にはあまりに無情な表現なため、日常的に形容されるものではありませんが、子供の成長は、しばしば親のポートフォリオとして利用されがちであり、そのポートフォリオを以てして自分(親)の子育てや人生の答え合わせをしているのです。

 

子供は親の人生を生きてはいない

親が子供の将来や生き方を案ずる、あるいは干渉する本質的な理由は、自己肯定感の充足だと推測しましたが、一方の子供はどうでしょうか。

 

つまり、押し付けられたと言うのは少々被害妄想な印象も強く、実際のところは、子供側も当たり前のように親の価値観の中で生きることを選んでいたのでは?という疑問に当然当たるということです。

 

自分をここまで育ててくれたのだから、自分のために仕事をして稼ぎを得て生計維持してくれていたのだからと、親が完璧であったり理想的であればあるほどに、親の意向に沿うことが子供にとっての正解であり、それが子供自体のの自己肯定感を高めるものになってしまいがちです。

 

皮肉なのが、親にとっても子供にとってもお互いの生き方に干渉することは、それぞれの自己肯定感に非常に直結しているということです。

 

しかし、勿論他人とは言い切れない・割り切れない関係ですが、親子と言えども本質的には他人です。

 

ましてや、成人した後や家庭を持った後で言えば、よりいっそうに他人です。それは親とは異なる独立した生計を立てているという面でも言えますが、精神性や価値観といった面でも大きく異なってきます。

 

この「親子が他人である」ということを親も子も受け入れられないのです。

 

特に代々優秀な大学に進学している家系だの、代々国家公務員だのといった、自分の遺伝子が非常に優れたものと信じて止まない人が。

 

これは、親の世代がそのまた親の世代の価値観を更新できないまま生き方を継承しているような、それはそれは由緒ある家庭の人等に多い話です。

 

話を戻して子供の目線に置き換えてみると、親との価値観上の決別は必ず通らないといけないものだと私は考えます。

 

具体的には、18歳や20歳頃に家を出ることで第一期親離れが起きます。これは主に物理的・経済的な独り立ちを意味します。つまり、これから名実ともに親と他人になるためのスタートといったイメージです。勿論、一人暮らし等をしない場合であっても同じです。

 

社会が大人だと認識し始める時期に、我々は第一期親離れをするのです。これまで自分の親が、自分を一生懸命、愛情を持って育ててくれていたという実感を得つつ、どれだけ仕事をしてお金を稼ぐことが難しいことなのか、生計を独立し家族を養うことが普通じゃないことなのかということを身をもって知っていきます。

 

ここまでは良くある話ですが、この第一期親離れのみで留まってしまうのでは、完璧に親と異なる人生を生きているとは言い難いのが実情です。

 

なぜならば、第一期親離れに際しては、むしろ親の偉大さや自分の無力さを痛感することが多分にあるからです。そして幾ばくかの親との比較や劣等感を感じつつ自分の指針を模索し始めます。恐らく新入社員などで鬱になったり、すぐに転職をしてしまうような理由にこういった劣等感もあるのではないでしょうか。

 

この“親と今の自分を比較する行為”との決別こそが、第二期親離れ、即ち親とは別の人生を生きるということになります。

 

親は親、自分は自分。

 

家族がいれば今までの価値基準や正誤判断は親や自身の過去の経験が元手だったかもしれませんが、これからは自分の家族や妻との話し合い、その家庭での正誤判断が重要になります。むしろ、前例たる親の生き方を参照しないのであれば、正解がないということにも気づきます。

 

おそらく、そうやって同じ姓であっても、時代に合った価値観が次々と更新・醸成されていき、脈々と○○家が健全なイデオロギーをもって継承されていくのです。

 

親への敬意と生き方は異なる次元

親への敬意と生き方の違いは別次元
もっと純粋に子供の誕生を喜んだ時を思い出してみよう

親とは別の生き方をするべく、時代に即した新しい自分の生き方を構築するべく、第二期親離れが必要だと論じてきました。

 

精神的に、価値観の上で親世代と決別する、しかも健全に。これがとても重要だと思います。

 

しかし、この決別という行為は、決して親の生き方や価値観を否定したり、蔑視することではありません。

 

恐らく、いや間違いなく我々の親もそのまた親(つまり祖父母)との関係において第二期親離れをしてきたはずなのです。つまり、我々は自分の親が新たに生み出した価値観を生きてきたはずなのです。

 

そして、深い愛情と共に育ててくれたのです。時折、自己肯定感を充足するために過剰に干渉することもあったかもしれませんが、とにかくそれぞれの愛情を持って育ててくれたのです。

 

子供を産んだ親であれば誰しもが思い当たる節があると思います。

 

皆、子供が生まれてくることを待ち望んでいたはずです。そして、何の打算もなく自分の子供とキャッチボールをしたり、喧嘩をしたり、酒を呑み交わしたいと願ったはずです。

 

このように、本来、子供は自身の自己肯定感を満たすものでは決してありません。ゼロに立ち返れば分かるはずです。私たちは検診の度に大きくなる胎児をエコー写真で確認してはその誕生を待ち望み、生まれた時は純粋にその生に感銘を受けたはずです。

 

自分がそうであるように、子供にも自由な生き方、自由に考える余白を与えるようにしてあげてください。

 

それでは、また。