シャイな息子が愛おしくもあり、分かり過ぎて歯がゆい。

シャイな息子が愛おしくもあり、分かり過ぎて歯がゆい。

どうもこんにちわ、INAZOOです。

 

先日の連休中、私は2歳の息子と近くのショッピングモールに出掛けた。しかもバスで。息子はバスをはじめ様々なはたらくくるまが大好きだ。トミカもたくさん持っている。自分の持っているトミカを帰宅した私に自慢そうに見せてくれて、キャッキャとはしゃいでいるごく普通の2歳児だ。

 

但し、それは家の中や我々両親といる時の話。

 

初見の子供たちを目の前にした時に、未だ保育園に行っていない息子は途端にシャイな男になる。その姿がどうしても愛おしい。そういった息子を見守りながら親のあり方について少し考えてみた。

 

今日はそんなお話。

 

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キッズランドで求められる社交性?

これは全国的な流行なのか、沖縄県内には、キッズランドと呼ばれる施設が実に多数存在する。個別にそういった施設があるだけでなく、いわゆるイオンモールのような大型ショッピングモールにおいても大規模なキッズスぺ―スを有するところが日に日に増えている。

 

 

このCMのうたを浜田ブリトニーが歌っているという事実に衝撃を受けつつも、キッズランドがなんたるかをご理解いただけたことだろう。

 

恐らく台風や日差しが強い沖縄ならではなのだろうか、キッズランドはまさに子供の楽園といっても過言ではない。ボールプールやバウンドする大きなボール。大きな滑り台に動く床・・・子供が喜ぶギミックがたくさんある。

 

私の息子も多分に漏れず、キッズランドが大好物だ。水を得た魚のようにはしゃぎ、ニコニコしながら私を見て、謎のダンスをしながら喜びの舞をする。

 

冒頭の話に戻るが、先日の連休最終日に、息子とショッピングモールに行った際にも施設内にあるキッズランド(正確にはキッズスペース)に行ったわけだが、そこで待っていたのはおぞましい程の数のちびっこの数だった。

 

大き目なキッズスペースにも関わらず、一面を埋め尽くす子供の数。私は元来自分の子供以外には全く関心のない人間なため、猛烈な嫌悪感を覚えたことは言うまでもない。

 

そんなおぞましい程の子供の数を目の前に私の息子は、「遊べる」という胸の高揚と、たくさんの知らない“おともだち”がいるという不安の入り混じる実に複雑な、子供ならではの心境に至っているように見えた。

 

そんな息子に対して、何も気にせずに走り回れば良い、そこら中にある遊具で思いっきり遊べばいい、と親は思う。

 

恐らく息子も本心はそうしたいはずだ。しかし、そういった子どもの純粋な好奇心や遊び心を阻害するものが、「社交性」と呼ばれる無言の秩序だ。

 

滑り台を滑る順番だの、誰かが使っているボールに対して、貸してとお願いするだの・・・有限の資源を共有するが故に生じる、社交性という名の秩序。これは本当に必要なのだろうか?

 

息子の少し遠慮しがちな表情や、誰かと遊びたいと控え目に思いつつも周りを伺いながら恐る恐るキッズスペース内を徘徊するその背中を見た時、ふとそんなことを思った。未知の世界に飛び込もうと道を模索するような息子の姿がとても愛おしく、そして無性に応援したくなる衝動に私は駆られた。

 

この私の思いは、行き過ぎるとやがてモンスター化することも分かっている。

 

いわゆるモンスターペアレントというものだ。だから私は、その時、静かに息子の動向を見守ることとし、特段アシストもすることなく、ただキッズスペースの縁で息子の動きに目をやっていた。

 

・・・こういった子どもへの愛おしい思いに見覚えがある親は多いのではないだろうか。

 

不特定多数の子供を「おともだち」と呼ぶ習慣

不特定多数の子供を「おともだち」と呼ぶ習慣
いや、ともだちじゃねーけど?って思ったことありません?

普段から何の気なく使われている、親社会の言葉に「おともだち」という表現がある。これは、友達とは一線を画すものだ。

 

具体的な違いは、前者は不特定多数の同年代の子供を指し、後者は顔見知りの存在、世間一般で使用する友人の概念を指す。なぜ、親はキッズスペースのような不特定多数の子供がいる場所において、そこにいる子供を総称して「おともだち」と呼ぶのだろうか。

 

それは紛れもなく、私たち親世代の中に流れて疑いようのない「同調圧力」そのものだ。

 

なぜ、知りもしないその場にいる人間を「おともだち」と認定して同調しないといけないのだろうか。仮にキッズスペースが共有スペースだから、子供たち同士で譲り合って使用するという秩序は分からなくもない。しかし、そういった秩序を保つためだとしても、おともだちではないだろう。

 

男の子だの女の子でも良いだろう。あるいは、お名前は?って聞く癖を持たせるなど、いくらでも対処策はあるはずだ。

 

おもちゃを乱暴に扱っていて、涎をまき散らして、薄汚い格好をした子供を無理におともだち認定しないといけないのは苦痛ではないだろうか。不特定多数の子供を誰彼構わず「おともだち」と呼ぶ親のせいで、子供はいつしか無言の同調圧力に苛まれていくのではないだろうか。

 

私の息子の話に戻れば、「おともだち」に配慮するあまりにキッズスペースで右往左往してしまい、遊べる遊具を求めて彷徨ったのだろうし、友達と遊びたいという子供なら当たり前の欲求に駆られながらも、「おともだち」の概念により苛まれた強烈な同調圧力、秩序を壊してはいけないという葛藤の渦に溺れてしまったのだと感じた。

 

子供にそんな配慮をさせてはならない。これをお利口な子だと決めるのはあまり子供の無邪気さという最大のメリットを奪いかねない行為だ。

 

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はからずとも秩序に従ってしまう子供の純朴さが愛しい

子供は友達作りの天才
子供って友達つくりの天才やわ

知らないうちに親がその何の気ない言葉の表現によって、子供を社会の同調圧力に巻き込んでしまい、はからずともその秩序を忠実に守ってしまう子供。無論、私の息子もそうだ。

 

しかし、その実情を私も含めて親は問題視などしない。むしろ愛おしく思っているはずだ。なんてお利口な子なのだと。

 

確かに無用な争いを生まず、同世代の子と遊具やおもちゃを共有して遊ぶことは、素晴らしいことだ。しかし、それを無言の圧力によって子供に強要してはならないし、そういった暗黙の了解を親子間で作ってしまうこと、そしてそんな状況を親として安住してしまうことは非常に危険だと思う。

 

理想を言えば、無理矢理おもちゃを奪ってしまうような過ちを犯しつつも、それによって生じる空気の緊迫や、友達を傷つけてしまうこと、無論自分の心も傷つくこと、そういったことを身を以て失敗と共に学ぶことができるのが一番好ましいのではないだろうか。

 

これは社会全体が、子供の無邪気さや無秩序な様を許容するだけの器を持たないといけない話だが、子供がもっと積極的に失敗することができ、心の学びを深めていくことができる社会を創っていきたいと常々思っている。

 

とはいえ、こんな面倒なことを考えるのは旧来の秩序と新たな秩序の間を生きる、私のようなミレニアル世代の親たちくらいかもしれない。

 

子供はもっと単純で、そんな心配や危惧をよそにどんどん成長するし、どんどん失敗する。そして、勝手に友達を作ってくる。

 

子供は友達づくりの天才だ。それを親は邪魔してはいけないし、友達の価値観を勝手に作ってはいけない。

 

それでは、また。