謝ることではなく、前を向くことに価値がある。

謝ることではなく、前を向くことに価値がある。

おかげさまで、何件かのお詫び文書についてのご依頼をいただくようになってきましたので、ここでお詫びする行為の価値について解説していきます。

 

始末書代行
その始末書、代行します。

 

結論から言うと、始末書や顛末書、謝罪文、どんな形式であれ・・・謝ること自体に価値があるのではなく、そこから前を向く事に大きな価値があります

 

これから、前向きに次の一歩を踏み出すための謝罪文への向き合い方について解説していきます。

 

謝ることには意味はない

謝罪という行為がもたらすものは、安に相手方に対する形式でしかなく、端的に言えば気休めであり、相手方に燃え上がった炎を鎮火する行為でしかないということです。

 

つまり、-(マイナス)から+(プラス)ではなく、-(マイナス)から0(ゼロ)にする行為だということ。

 

この時点でお気づきだと思いますが、謝罪という行為自体には何ら生産的な要素はないのです。そのため、鎮火でしかないこの謝罪行為は速やかかつ滞りなく完了させ、より重要な生産的な行動をとりに行くべきだというのが、私の持論です。

 

当然のことながら、鎮火という行為には意味があります。炎が上がり続けていたら、他の部分にも火の粉が降りかかることもありますし、とりあえず危険です。

 

したがって、炎はすぐに消化することが大切なのであって、炎の消し方や消す時の思いに感情を込めたり、誰も見たことが無いような消し方をしても結果は全て同じことです。

 

 

いなだナウ
誰も見たことがない

消化の仕方・・・

気になる。

 

 

これは、謝罪という人付き合いにおける鎮火においても同様です。火消し自体に価値があるのではありません。しかし、相手の怒りというものは炎と同じ、素早く消すことには大いに意味があります。

 

文書の出し先によって、込める意図が異なる

謝罪自体には意味がないという主張をしましたが、これが言えることはビジネスに関する場面がほとんどです。つまり、ビジネスの場面における謝罪は、鎮火に置き換えられるケースが多分にあります。

 

例えば、承認のない経費を勝手に使いこんでしまったといったような事案があるとします。その場合、怒っているのは誰でしょうか?大方、経営陣やあなたを信じていた上司といったところでしょう。

 

しかし、何故怒っているのかを改めて考えてみると、実損たる経費が自分の預かり知らぬところで無くなっていることです。故に、この怒りの根本的な原因である経費を補填することや、実損を補完すれば事が足りことになります。

 

勿論そんなドライにはいきません。しかし、炎たる怒りは実損から来ているのであれば、それは実損を補完すること以外に真に問題の解決には至らないということです。

 

では、何故始末書や顛末書が必要なのか、そこがこの社会の無駄なところです。いわゆる落とし前やけじめといったものです。この手の要素がビジネスの場において、実損を埋めることはありません。

 

そのため、この場面では早急に火を消して、徹底的に実損の補完に励むしかないのです。これはこのケースに限った話ではありません。ビジネスの場面で求められるお詫び文書は、十中八九何かしらの実損が出ていることに起因します。そこがミソです。

 

つまり、舞台がビジネスである場合はとにかく迅速に火を消し、形式的に終えることが大事です。大切なのは実損の補完です。一方で謝ること自体をチャンスに置き換えることもできます。それはまた別の記事でご紹介しています。

 

反省文の書き方2.0
反省文の書き方2.0

 

対して、人間関係に関する謝罪ですが、これは鎮火の仕方たる謝罪方法が重要になってきます。

 

人間関係における謝らないといけないようなこと、あるいは仁義にかけるようなことをした場合、文章を書いたからといってその後も同じことをしないとは限りません。つまり、場合によっては謝罪が火消しにならないこともあるということです。

 

では、何が必要なのか。

 

それが誠意などと言う言葉に置き換えられる感情です。先のビジネスの場面で言えば至極無駄なものに見えます。とはいえ、怒りを抱えている人は自分を尊重してもらうことでその炎の勢いを抑えることができるのです。

 

なぜならば、人間関係における謝罪が必要なケースは、実損自体が“感情”なのです。正常な感情を損なわれたことに対する補完が、謝罪であり、いわゆる誠意なのです。

 

そのために早急な火消しと、誠意の伝わる文面や謝り方が特に重要だということです。さらに、相手はビジネスとは違い人の感情ですので、「私が悪い」、「二度と同じことをしない具体的対策」といった要素が非常に重要であり、そこに垣間見える思いが必要になってきます。

 

とはいえ、ビジネス、人間関係いずれにおいても、長期的な目で見れば、どちらも早々に火を消すことが大切で、それよりも重要なのがその文書を出した後、文書に記述したことを行動で示せるかということになります。

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フィードバッグを保存する

では、どのようにその後の行動に示していくのか。それに答えはありません。無論、それぞれの方によって方法は異なるからです。

 

しかし、どんな場面でも謝罪⇒立ち直るといった理想の流れを生み出すために大きく貢献をするのが、「フィードバッグを保存する」という方法です。

 

反省文や始末書、謝罪文を保存するのではなく、それを提示した時にもらったフィードバッグを保存するということです。これは文書でもらうといった手法に拘りはありません。

 

つまり、こちらの謝意を受け取った人の発言や言動、メールなどが残っていればそれでも良いでしょう、そういった謝罪した後のフィードバックを胸に刻むということです。

 

なぜ、謝罪文や始末書といった自分で書いたものではないのか。それは、後ほど説明しますが引きずることに影響してしまうからです。過ちを引きずることに意味はありません。

 

しかし、謝罪したことでどのように回りに影響が及んだのか、その謝罪に対して周りがどう感じたのか、そんな中でも応援してくれる人がいるのか、そういった部分を胸に刻んでおくべきだということです。

 

簡単な話です。自分で誓ったことよりも、人に言われたり、人からくぎを刺されたことの方が、後の自分に対しても拘束力が強いのです。自分自身で振り返っても、少し時間が経って、過ちが風化してくるとたちまち甘えのようなものも生まれてきます。

 

人間はそういったものに抗うのが非常に難しいのです。

 

ちなみに、私は過去に大きな過ちを犯しました。そして多方面に心を込めて謝罪をさせていただきました。その際に色々なご意見や叱咤をいただきましたが、兄がくれた手紙に救われました。今なお私を前に歩ませる活力になっています。

 

つまり、自分の過ちを認め謝罪し、それに対してのフィードバックが兄の手紙だったということです。このように、謝罪をした人からのフィードバックに限らず、関係する人からのフィードバックでも良いと思います。

 

内容は個人的なことなので控えますが、私は兄の手紙を今もデスクに忍ばせ、少し自分に甘くなりそうな時、逃げ腰になりそうな時にふと読み返し、謝罪をしないといけなかった自分を思い出し、奮起します。

 

考え方を変えれば、人よりも多くの自分のモチベーションに火をつけるエンジンを持っていると考えれば良いのです。謝罪をした時の気持ちやその謝罪を受けた人の言葉は、以降のやる気にも繋がります。しかもヒリヒリするくらいの痛みや悔しさ、後悔という念を持って。

 

これが大切だということです。謝罪自体ではなく、謝罪をした時の気持ちや、それを受けた人の感情を胸にしまっておき、必要な時に持ち出し心の火力を上げる燃料にする、これが大事なのです。

 

過ちを引きずることにメリットはない

「フィードバックを保存する」ことで、過ちを二度と起こさない、むしろその過ちを糧にすることに意味があるお話ししましたが、一つ注意事項です。

 

それは、過ちを引きずることにはメリットはない。ということです。

 

謝罪に対する関係者のフィードバックを保存することは、一歩間違えると引きずることにも繋がりかねません。しかし、あくまでそれは後の更生においての抑止力やモチベーションのエンジンに使うものであって、あの頃(過ち)を思い出すためのものではありません。

 

あくまで前を向くための材料にするのが、謝罪に対するフィードバックなのです。やってしまったこと等もうどうだっていいのです。

 


 

このように、謝ること自体にあまり意味はなく、あくまで火消しでしかないということ。そして、最も大切なのはその後に前を向いて行動をすること。

 

そのために客観的な意見やその過ちの見解として、誰かのフィードバッグを保存するということ、こういった方法を紹介してきました。

 

ある種、私がやっている「お詫び文書代行」もこのフィードバッグに当たるものなのです。勿論、自分でお詫び文書を書くことは大切です。しかし、第三者が客観的な目で謝意を綴り、纏まっていなかった思いを形にすることで、それをその後の行動指針にしていただくこともできます。

 

重複しますが、文書を書くことではなく、その状況を受けてその後の行動にどう活かすか、それが最も重要なことです。そんな前を向く力の助けになれば幸いです。

 

何か煮え切らない思いや悩みがある場合は遠慮なくお問い合わせください。

 

それでは、また。